◉ 欲がある限り
自由にはなれない
本当に、世界の調和を願う意識に次元が変わると、人は 詰め込み主義から脱する。
行動しすぎたり、上へ上へと目指すのは実は物質レベルの達成を主にしているからであり、まだまだ、真の自由、魂の解放を認識してるとは言えない。
それが分からないと、
人生の間は抜けてしまう。
私自身、それが原因で、昨年は体調を崩した、と理解しているし、色々、不都合ばかり起きた事は 当たり前であったし、物事が上手く運ばなかったことを、今では喜ばしく思える。^^
何もしない大事さが 解らないと、そんな風に、間抜けな事になる。
悠悠自適とは、
自由な精神の一つの在り方だが、
何もしない大事さを知らぬ限り認識できない。
それは心に間がある次元である。
何もしない、とは
ダラダラ過ごすわけではない。
好き勝手な事をするわけでもない。
精神の自由自在性とは、
そんな次元ではない。
ましてや 人と喧嘩する人や
自分の説を信じこませたい人には
いくら自由の説明を出来ても、
心には 真の自由はない。
何もしない、為さないことを
さらに本質的、具体的に言えば、
物質レベルの達成と言う目的を持たずに
無為に行為することだ。
つまり、瞑想や坐禅など、ただ座るだけ。一見無意味な行為を通し、実はこの世で最も 重要で、かつ目立たない活動をする事である。
正しく坐るには、
一切のこの世的な目標や目的を脇に置いて、行わないと、
坐禅にはならない。
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何かの為に、何かを為す事は、良くない事は無いが、そこに期待が生まれやすい、
そこには 実は、殆どの場合、
欠乏感がある。
真の心のゆとりは
決して 自分にも、
他人に強要しないし、
促がしたりもしない。
真の理解、自発性、
または主体性無しに、
真の自在心、自由な精神に基づく行動は出来ない。
主体性を育む中で、
様々な葛藤があるでしょうけれど、
余計なエゴを削り落しながら、
余計な欲をそぎ落としながら
人は 自然に 真の自由、自在心を表して行くものです。
そうして、
人生に間が無いと、
マインドにも間がぬける。
だから自己反省が生まれにくい。
前へ前へと進もうとして、
逆に一進一退している事に気づかぬ事がある。
坐禅の大切さはそこにある。
感性が研ぎ澄まされて来ないと、自分の不自由な有様にも気づかない。
生き急ぐ人のマインドには間がない。その人生にも間がない。
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